MOTVシリーズあらすじ MOTV1-アメリカの革新シリーズ

各作品のあらすじ 

■MOTV1「イノベーションの世紀:アメリカの革新」シリーズ

1.  電話 ~その発明と革新
1876年にベルによって発明された電話が、単なる玩具としてしかみられていなかった初期の段階から、やがてアメリカ全土にわたるコミュニケーションをカバーする巨大な産業へと発展していくプロセスが描かれている。新興の電話会社であったベル社が巨大独占企業AT&Tへと変身をとげていくプロセス、その過程でのウエスタンユニオンとの特許紛争、特許の有効期限が切れた後の多数の独立系電話会社との競争、さらには、電話ネットワークが発展する過程に起きた様々な技術的、社会的な問題や電話がもたらしたアメリカ社会における変化などが紹介されている(51分)。

2.  電波の帝国 ~ラジオを創造した男たち
3人の人物(リー・デフォレスト、エドウィン・H・アームストロング、デヴィッド・サーノフ)が歩んだ人生を追いながら、ラジオとラジオ放送が誕生、発展していくさまが描かれている。マルコーニへの対抗心から無線通信の発明に傾注し、「オーディオン」の発明により自らを「ラジオの父」と自負するデフォレスト、彼が「発明」した三極管の原理を解明するなど、ラジオ放送技術の発展に大きく寄与したアームストロング、そしてそれらの技術を巨大なラジオ放送事業の実現へと結びつけ、成功の階段をのぼりつめたサーノフ。かれら三人の生い立ちから死に至るまでのいきさつを中心に据えながら、無線技術が、いくつかの技術革新を重ねながらラジオ放送、さらには後のテレビ放送へと発展し、それがアメリカの社会、経済、政治、文化を大きく変容させていく過程が明らかにされる(計113分:Vol.1 55分、Vol.2 58分)。

3.  カメラの鬼才 ~イーストマン・コダック物語
イーストマン・コダック社の創設者、ジョージ・イーストマンの人生をたどりながら、一般大衆向けカメラが誕生し、普及していく過程が描かれる。「重くてかさばり、現像用薬品も扱いにくく、携帯には不向き」–1870年代当時の写真が抱えていた問題を解決しようとしたイーストマンは、持ち前の几帳面さとアイデアによって、扱いやすく、携帯しやすいカメラ「コダック」を発売する。これによって、写真撮影はプロによるものというそれまで常識を覆し、アマチュアでも気軽に写真を楽しめる撮影と現像の仕組みを実現していく。その後、不況やイーストマンの性格が災いした技術者の解雇等によって一度は業績が落ち込むものの、世界経済の回復による投資市場の拡大や、写真フィルムを用いた映画産業の勃興、企業買収による技術取得によって製造可能になった安価なカメラ「ブラウニー」の発売などによって、コダック社はカメラ業界で確固たる地位を確立する。こうしてイーストマンは、誰もが気軽に大切な想い出を写真として残し、楽しめる世界を実現し、また、私財を投じて写真技術の発展や地域に寄与するなど、多くの人々に幸せと利益をもたらした。しかし、彼自身の人生は必ずしも幸せな幕の閉じ方をしたわけではなかった(52分)。

4.  真空管からトランジスターへ ~半導体産業の誕生と発展
20世紀最大の発明ともいわれるトランジスターがどのようにして開発されていったのか、開発を担った3人の研究者に焦点を当てながらそのプロセスを追う。1940年代後半、AT&Tの研究機関であるベル研究所では、拡大する長距離電話システムの効率的な運営のために必要な技術の開発を目指して、優秀な科学者を集めて増幅作用を担う真空管の代替品の開発に取り組んでいた。ショックリーをリーダーとして、ブラッタンとバーディーンの3人からなる研究者チームは、トランジスターの開発に集中する。1947年、試行錯誤を重ねた末に開発に成功し、「トランジスター」と命名される。しかし開発の過程で3人の優れたチームワークは崩れ、ブラッタン、バーディーンとショックリーとの間にはもはや埋めることのできない深い溝が横たわっていた。トランジスターは、発表当初、世間からはあまり注目されず、産業界の関心も薄かったが、1956年、3人はノーベル物理学賞を受賞する。3人はそれぞれやがてベル研を去るが、ショックリーの決断は後のシリコンバレーの発展の礎となっていく。彼は同地にショックリー・セミコンダクターを設立し、その中のメンバーのムーアらが後にフェアチャイルドを、そしてさらにその後にインテルを創業する。ニュージャージ州ベル研ではじまった半導体の歴史はカリフォルニア州シリコンバレーへと引き継がれていく(57
分)。

5.  シリコンバレー ~ハイテク聖地の歴史
情報通信分野のイノベーションの世界的な中心地、シリコンバレーの特徴と歴史を、成功を収めたベンチャー企業(インチュイット、ネットスケープ、アップル、AMDなど)やスタンフォード大学、ベンチャー投資家に焦点を当てながら描き出す。シリコンバレーの特徴は、①起業家の型破りな発想、②それを事業化するための投資システムの完備、③開放的な大学の研究環境、④失敗の反復が成功の原点であるという認識、にある。無数に誕生する起業の地だからこそ、投資資金が得られないといった難題に直面することもあるが、それでも方策はいろいろ残されている。こうして「現代の新ルネッサンスの地」、シリコンバレーは既存の技術や経済の仕組みにとらわれることなく、「フェアチャイルド以降、16~18ヶ月おきに起こる産業革命」を牽引していく(55分)。

6.  パーソナル・コンピュータの誕生と進化 ~Nerdたちの勝利
パーソナル・コンピュータ(PC)が趣味のオモチャから一大産業へと進化していくさまが、そのプロセスに関わったコンピュータ「オタク」(Nerd)と呼ばれる若者たちの姿と様々な企業の盛衰を追いながら描かれる。1970年代半ばに登場したPCは当初、一部のマニアたちを対象とした未熟なオモチャに過ぎなかった。これをビジネスシーンに浸透させたのは、アップルらの新興企業の活躍とPC用に開発されたコンピュータ言語やOS、そして「ビジカルク」といったソフトだった。1981年、巨人IBMがPC市場へ参入したことで、PCは企業の信頼を得、ビジネス文化を大きく変える新産業、新市場を形成していく。後発のIBMは、オープン・アーキテクチャを採用して開発期間を短縮させ、またたく間にPC市場を席巻する。しかし、IBMの思惑に反して、クローンPCの台頭を招いてしまう。さらにGUI技術がPCに採用されることで、PC市場は一般人向けへと広がり、市場はさらなる拡大を続けるが、そこでの勝者は、この技術を開発したゼロックスでも、最初にPCに採用したアップルでも、むろんIBMでもなく、マイクロソフトだった(計152分:Vol.1 51分、Vol.2 50分、Vol.3 51分)。

7.  インターネットの勃興 ~Nerd たちの活躍
1960年代から約40年に及ぶ、インターネットの創世から離陸、爆発的成長までの歴史を、その過程に関わった様々な人々、組織の姿を追いながら描き出す。ソ連との宇宙開発競争から始まったインターネットの歴史は、1960代年から70年代にかけてタイムシェアリングやARPANET計画を通じて、電話線を利用したパケット交換による大型コンピュータのネットワークの構築に向かう。この流れは、ワークステーション、ファイル・サーバー、ルータなどの貢献により、やがてパソコンのネットワーク化につながっていく。そして、1990年代に入ると、 WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)、ブラウザ、JAVAの開発により、インターネットはより身近なものになる。インターネットは爆発的な勢いで社会に浸透し、同時にその過程で様々な企業が大きな成功を手に入れていく(計183分:Vol.1 60分、Vol.2 60分、Vol.3 63分)。

8.  オンライン・マネー ~電子決済の興隆
情報通信技術技術の進歩にともなう金融サービスのイノベーションと進化の歴史が、そこに関わった様々な人物や企業、組織の姿をまじえながら描かれる。かつて貨幣、紙幣、小切手など手に触れる有形物であったお金は20世紀に入ってその姿を大きく変えていく。クレジットカード、ATM、先物取引、金融市場、電子決済など、金融サービスをめぐる革新はとどまるところをしらず、国際資本市場は国家の枠組みをはるに超えた巨大な存在として膨張を続けている。そうした流れを牽引し、加速しているのが、率先して金融サービスのイノベーションに挑む一部の銀行、取引所、投資会社、情報サービス会社の先進的な取り組みであり、それを可能にする情報通信技術の進歩である(計115分:Vol.1 57分、Vol.2 58分)。

9.  クールの商人 ~ポップカルチャー・マーケティング革新
アメリカの若者(ティーン)をターゲットにしたビジネスにおいて、若者達が求めるクール(かっこよさ)を企業がどのようにして見つけ出してマネジメントしているのか、その実態とそこに見え隠れする問題が描かれる。3200万人を数えるアメリカの10代の若者は、年間で1500億ドルを使うといわれている。若者向けポップカルチャー・ビジネスで成功をおさめているスプライトとMTVなどを事例としてとりあげながら、とらえどころのなく、不確実で、つかんだと思ったらすぐに逃げていってしまうクールを企業がマネジメントしていくプロセスが具体的に明らかにされている。その一方で、ティーンにスポットをあてた際限のない企業行動が激しさをますがゆえにアメリカ文化の水準が低下し、暴力とセックスが助長されるという社会問題や懸念も浮かび上がっていく(54分)。

■MOTV2「イノベーションの世紀:技術と社会」シリーズ

10.  電気の時代の到来 ~エジソンの天才と苦悩
人々の生活を一変させたエジソンの大発明-電球と電力システム-の開発と普及のプロセス、および、エジソンの直流電力システムが新技術(交流電力システム)に代替されていくプロセスが描かれている。エジソンは、それまで不可能と言われていた実用的な電灯の発明を成し遂げ、さらに、各家庭に電球を灯すための一連の電力供給システムを開発し、社会に普及させていった。エジソンは電球および電気システムの開発にわずか6週間という期限をきったが、実際には、その目標をはるかに上回る長い年月が費やされた。開発に成功したシステムの実地試験は成功裏に終わったものの、社会的な普及には予想より時間がかかった。人々の電気の安全性に対する不安などが普及を阻害したためだ。大々的な宣伝活動で不安の払拭に成功すると、エジソンのシステムは社会に受容されていく。だが、この成功は、他方で新規参入を促した。特に、ウェスティングハウスの交流型電力システムは、エジソンのシステムよりも優れていた。エジソンは交流システムについて過剰ともいえる攻撃をしかけたが、結局は自らの評判を落としただけで終わった。やがて、エジソンの直流システムは交流システムに代替されていく(57分)。

11.  ピル ~経口避妊薬誕生への闘い
アメリカ社会で経口避妊薬ピルが開発され、普及していくプロセスとピルのもたらした社会への影響を描いている。多数の子供を抱えて女性たちが貧困にあえいでいる状況をみてきたサンガーは、産児制限を求めて戦っていたが、その成果は限られたものだった。当時の社会は、女性が男性にコンドームの使用を求めることも、性行為について口にすることも憚れる時代で、女性はただ受身の立場で妊娠を繰り返すだけだった。彼女は避妊薬を求めて、学会から冷遇されていた生殖生理学者ピンガスにその開発を依頼、さらに、かつて女性参政権運動の同志だったマコーミックから資金提供の協力を取り付けた。研究に着手したピンガスは、プロゲステロンに排卵抑制の効果があることを立証し、当時同じ効用を見出してピルを開発したものの用途を見出せなかったGDサールからサンプルを取得した。小規模臨床実験にむけてカトリック信者であり不妊症専門医のロックを巻き込み、さらに、食品医薬品局の認可を取り付けるためプエルトリコで大規模臨床実験を行った。結果は100%に近い避妊を実現できるものの、副作用のため実用化には耐えられないというものだった。ロックやピンガスはそれを無視、GDサールが避妊薬ではなく生理不順治療薬として発売に踏み切ると、情報がもれたこともあってあっという間に女性への投与が進む。やがて食品医薬品局の認可が下りると、ピルは黒人女性も含めて全国に急速に普及していった。しかし、その副作用が問題になり、社会不安を巻き起こす。上院で開かれた公聴会では、傍聴人として参加していた女性団体からその危険性を知らされていなかったと激しい抗議が行われた。この結果、ピルは改善され、製薬会社には潜在的な危険性について告知する義務が与えられた。カトリック教会は産児制限をするピルに対し受け容れられないとの判断を下したが、ピルは女性を出産・育児から開放し、社会進出を促した。経済的な自立を手にした女性は、自らの権利を社会に対して主張するようになり、医者と患者の関係も変化した(53分)。

12.  遺伝子組み換え食品 ~技術革新の光と影
遺伝子組み換え(GM: Genetically Modified)食品が、安全性を主張する科学者の努力や意義を強調する途上国の訴えにもかかわらず、西側諸国の消費者の反発に合って実用化が進まないいきさつが描かれている。GM技術は1980年の植物における遺伝子組み換えメカニズムの発見とそれに続く多くの応用研究によって、1990年後半にやっと農業分野での実用化にまでこぎつける。その間、安全性に対する客観的なデータは積み重ねられ、多くの機関の検査にもパスした。GM技術は、害虫や雑草といった問題に悩んでいる西側諸国の農業従事者はもとより、農業の低生産性と低栄養価による食糧不足と栄養失調という深刻な問題を抱えている第三世界で特に期待が高かった。しかし、GM技術の実用化が始まった頃、西側諸国の富裕層を中心にGM食品の安全性に対して不安が起こり、それが大きな反対運動に展開していく。反対運動は、科学的なデータ(根拠)に基づくものではなく、むしろ直感・感情・イデオロギーの影響が色濃いものだったが、GM技術の利用や開発投資をめぐる企業行動を左右するようになった。こうして、GM食品はその科学的安全性が証明され、恩恵を十分に期待されながらも、実用化には結びつかずに、市場から消えつつある。(79分)。

13.  国際メディア帝国 ~マードック一族の野望
ルパート・マードックが父から受け継いだオーストラリアのメディア事業を、エンターテイメントの世界を含めて国際的なメディア帝国へと拡大していったプロセス、および、帝国を子供たちに引き継がせたいというルパートの願望とその現実が描かれている。ルパート・マードックは、ロンドン留学中に父キースが急逝し、「アデレート・ニュース」の経営を受け継いだ。彼はこの地方紙をベースに、低俗なタブロイド紙から高級なオーストラリア全国紙まで手がける一方で、テレビ局買収などメディア事業を拡大した。1968年にはロンドンに進出し、タブロイド紙で稼ぐと、続いてその資金をベースに、1970年代にはニューヨーク(NY)進出を図る。NYでは当時赤字だった「ニューヨーク・ポスト」と「ニューヨーク・マガジン」を買収し、1985年にNYの市民権を取得すると、念願だったテレビチャンネルや「21世紀フォックス」の買収に乗り出し、エンターテイメントの世界にまで帝国を拡大する。ルパートも、その子供たちも、マードック家では競争が奨励され、幼いときからメディア・ビジネスについての考え方を父から教えられた。ルパートは父から受け継いだ事業帝国を子供たちに託したいと望んでいるが、すでに同家の出資比率は30%程度と低く、高齢のルパートが他界すれば求心力を失って同族経営の維持は難しくなることが予想されている(57分)。